「表現」と「アイデア」の境目とは? ―金魚電話ボックス事件【高裁】、既製品アートと著作権法との闘い―

地裁編の続きです。

Ⅰ.争点1.原告作品には著作物性があると判断
Ⅱ.争点2.被告作品は原告作品の複製・翻案に該当すると判断
Ⅲ.地裁判決との比較
Ⅳ.既製品アートと著作権
Ⅴ.これで終わるのか?

高裁では判決がひっくり返り、著作権侵害が認定されました。

Ⅰ.争点1.原告作品には著作物性があると判断

 通常の電話ボックスを「採用」した点には当然著作物性など無いわけで、判決においては通常の電話ボックスとは異なる点を4つ挙げ、それぞれの点についての創作性を検討しています。
 最終的には、浮いた状態となっている受話器がポンプとなって気泡を発している点を中心として創作性が認められた形です。

第1に,電話ボックスの多くの部分に水が満たされている。
→電話ボックスを水槽に見立てるというアイデアを表現する方法には広い選択の幅があるとはいえないから,電話ボックスに水が満たされているという表現だけを見れば,そこに創作性があるとはいい難い。

第2に,電話ボックスの側面の4面とも,全面がアクリルガラスである。
→出入口面にある縦長の蝶番は,それほど目立つものではなく,公衆電話を利用する者もその存在をほとんど意識しない部位である。したがって,鑑賞者にとっても,注意をひかれる部位とはいい難く,この縦長の蝶番が存在しない
という表現(すなわち,電話ボックスの側面の全面がアクリルガラスであるという表現)に,原告作品の創作性が現れているとはいえない。

第3に,その水中には赤色の金魚が泳いでおり,その数は,展示をするごとに変動するが,少なくて50匹,多くて150匹程度である。
→金魚には様々な種類があり,種類によって色が異なるものがあるから(公知の事実),泳がせる金魚の色と数の組み合わせによって,様々な表現が可能である。(中略)このように表現の幅がある中で,原告作品における表現は,水中に50匹から150匹程度の赤色の金魚を泳がせるという表現方法を選択したのであるが,水槽である電話ボックスの大きさとの対比からすると,ありふれた数といえなくもなく,そこに控訴人の個性が発揮されているとみることは困難であり,50匹から150匹程度という金魚の数だけをみると,創作性が現れているとはいえない。

第4に,公衆電話機の受話器が,受話器を掛けておくハンガー部から外されて水中に浮いた状態で固定され,その受話部から気泡が発生している。
→人が使用していない公衆電話機の受話器はハンガー部に掛かっているものであり,それが水中に浮いた状態で固定されていること自体,非日常的な情景を表現しているといえるし,受話器の受話部から気泡が発生することも本来あり得ないことである。そして,受話器がハンガー部から外れ,水中に浮いた状態で,受話部から気泡が発生していることから,電話を掛け,電話先との間で,通話をしている状態がイメージされており,鑑賞者に強い印象を与える表現である。したがって,この表現には,控訴人の個性が発揮されているというべきである。

以上によれば,第1と第3の点のみでは創作性を認めることができないものの,これに第4の点を加えることによって,すなわち電話ボックス様の水槽に50匹から150匹程度の赤色の金魚を泳がせるという状況のもと,公衆電話機の受話器が,受話器を掛けておくハンガー部から外されて水中に浮いた状態で固定され,その受話部から気泡が発生しているという表現において,原告作品は,その制作者である控訴人の個性が発揮されており,創作性がある。

Ⅱ.争点2.被告作品は原告作品の複製・翻案に該当すると判断

 共通する点、相違する点をそれぞれ挙げ、それらを比較検討することによって「被告作品から原告作品の創作的特徴を直接感得することができる」か否かという事が検討されました。
 結果として、相違点は共通点の印象を超えるものではなく、「被告作品から原告作品の創作的特徴を直接感得することができる」と判断されています。

共通点
① 公衆電話ボックス様の造作水槽(側面は4面とも全面がアクリルガラス)に水が入れられ(ただし,後記イ⑥を参照),水中に主に赤色の金魚が50匹から150匹程度,泳いでいる。
② 公衆電話機の受話器がハンガー部から外されて水中に浮いた状態で固定され,その受話部から気泡が発生している。

相違点
① 公衆電話機の機種が異なる。
② 公衆電話機の色は,原告作品は黄緑色であるが,被告作品は灰色である。
③ 電話ボックスの屋根の色は,原告作品は黄緑色であるが,被告作品は赤色である。
④ 公衆電話機の下にある棚は,原告作品は1段で正方形であるが,被告作品は2段で,上段は正方形,下段は三角形に近い六角形(野球のホームベースを縦方向に押しつぶしたような形状)である。
⑤ 原告作品では,水は電話ボックス全体を満たしておらず,上部にいくらかの空間が残されているが,被告作品では,水が電話ボックス全体を満たしている。
⑥ 被告作品は,平成26年2月22日に展示を始めた当初は,アクリルガラスのうちの1面に縦長の蝶番を模した部材が貼り付けられていた。

被告作品は,原告作品のうち表現上の創作性のある部分の全てを有形的に再製しているといえる一方で,それ以外の部位や細部の具体的な表現において相違があるものの,被告作品が新たに思想又は感情を創作的に表現した作品であるとはいえない。そして,後記(3)のとおり,被告作品は,原告作品に依拠していると認めるべきであり,被告作品は原告作品を複製したものということができる。
仮に,公衆電話機の種類と色,屋根の色(相違点①~③)の選択に創作性を認めることができ,被告作品が,原告作品と別の著作物ということができるとしても,被告作品は,上記相違点①から③について変更を加えながらも,後記(3)のとおり原告作品に依拠し,かつ,上記共通点①及び②に基づく表現上の本質的な特徴の同一性を維持し,原告作品における表現上の本質的な特徴を直接感得することができるから,原告作品を翻案したものということができる。

Ⅲ.地裁判決との比較

 本判決において創作性ありとされた「公衆電話機の受話器が,受話器を掛けておくハンガー部から外されて水中に浮いた状態で固定され,その受話部から気泡が発生している」点についての地裁での判断を見てみると、

多数の金魚を公衆電話ボックスの大きさ及び形状の造作物内で泳がせるというアイディアを実現するには,水中に空気を注入することが必須となることは明らかであるところ,公衆電話ボックス内に通常存在する物から気泡を発生させようとすれば,もともと穴が開いている受話器から発生させるのが合理的かつ自然な発想である。すなわち,アイディアが決まればそれを実現するための方法の選択肢が限られることとなるから,この点について創作性を認めることはできない。

このように判断されており、この点が地裁判決と高裁判決との決定的な違いであることがわかります。
改めて高裁での判決文を引用してみます。

人が使用していない公衆電話機の受話器はハンガー部に掛かっているものであり,それが水中に浮いた状態で固定されていること自体,非日常的な情景を表現しているといえるし,受話器の受話部から気泡が発生することも本来あり得ないことである。そして,受話器がハンガー部から外れ,水中に浮いた状態で,受話部から気泡が発生していることから,電話を掛け,電話先との間で,通話をしている状態がイメージされており,鑑賞者に強い印象を与える表現である。したがって,この表現には,控訴人の個性が発揮されているというべきである。

このように判断されています。
「公衆電話機の受話器が,受話器を掛けておくハンガー部から外されて水中に浮いた状態で固定され,その受話部から気泡が発生している」という要素について地裁での判断と高裁での判断を比べてみると、同様のアイデアの中で選択の幅が狭く創作性を満たさないと判断された地裁に対して、高裁においては「選択の幅」という観点には特に触れられず、その要素の意義や観賞者に与える印象を深く検討する形で創作性を認めています。

また、「アイデアから必然的に生じる表現である」という主張に対しては、

水槽に空気を注入する方法としてよく用いられるのは,水槽内にエアストーン(気泡発生装置)を設置することである。また,受話器は,受話部にしても送話部にしても,音声を通すためのものであり,空気を通す機能を果たすものではないから,そこから気泡が出ることによって,何らかの通話(意思の伝達)を想起させるという表現は,暗喩ともいうべきであり,決してありふれた表現ではない。したがって,受話器の受話部から気泡が発生しているという原告作品の表現に創作性があることは否定し難い。

として退けられています。

当然上級審による判断が確定することになるわけですが、正直なところ、地裁の判断と高裁の判断のどちらがより納得感が高いか、本件については非常に微妙に感じています。

著作権法はあくまでも「表現」を保護する法律であるところ、共通するアイデアから生まれる表現の幅が狭い場合にその表現を保護することは、実質的に「アイデア」を独占させることとなり、表現を規制する結果になります。
地裁の判決はそのような考えのもとで、「電話ボックスを水槽に見立てて金魚を泳がせる」というアイデアによって生み出される表現の幅は決して広いものではないとして下された判決です。

それに対して、高裁判決においては「公衆電話機の受話器が,受話器を掛けておくハンガー部から外されて水中に浮いた状態で固定され,その受話部から気泡が発生している」という要素に対して、「鑑賞者に強い印象を与える表現である」「そこから気泡が出ることによって,何らかの通話(意思の伝達)を想起させるという表現は,暗喩ともいうべきであり,決してありふれた表現ではない」といった形で評価し、創作性を認めています。

現状、上級審である高裁判決、すなわち「金魚電話ボックスは受話器から気泡が発生している表現によって創作性を有する」という判断が効力を持つことになります。

が、地裁判決が完全に間違っているとも思えません。

「表現」と「アイデア」との境目を考える時にいつも難しさを感じる部分ですが、「表現」であっても言葉や文章にしてしまうと途端に「アイデア」や「コンセプト」のように感じられてしまいがちです。
本件であれば、「公衆電話機の受話器が,受話器を掛けておくハンガー部から外されて水中に浮いた状態で固定され,その受話部から気泡が発生している」という文章だけを読むと、「アイデア」や「コンセプト」の域を出ていないと感じる人は少なくないでしょう。

Ⅳ.既製品アートと著作権

このような事態は、本件のような既製品を利用したアート作品において特に顕著であり、最大の議論対象の一つが「デュシャンの泉は著作物か?」というテーマです。

リンク先を見て頂ければ、誰でも一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。

はい、トイレです。

「普及しているトイレを横に倒して置く」という行為は、「本来縦に配置、固定されているものを横に倒しておく」という部分があるものの、全体としては「既製品の選択」が主な行為であり、「創作」と呼べるのかと言うとかなり厳しいものがありますし、そのような論争、哲学を含めた作品が本来の意図であると言えそうです。
ともあれ、「普及しているトイレを横に倒して置く」ことは、他人や社会に対して何らかの迷惑を及ぼす行為でない限り、著作権法はもちろん、何の法律によっても規制されるものではないはずです。

が、

マルセル・デュシャンの『泉』が有名になった状態でコレを行うと、「パクリだ!」という非難が発生するのは容易に想像できます。
「パクリ」という多分に気分次第の非難なんぞ特に気にする必要もないわけですが、その「パクリ」という言葉を可能な限り法に照らして検討してみると、やはりそれば「普及しているトイレを横に倒して置く」という、「アイデア」をパクったということでしょう。
そして御存知の通り、著作権法は「アイデア」を保護することはないのです。
(尚、著作権法で保護されない対象のパクリによって経済的な損害が生じた事が明らかである場合など、一般不法行為として損害賠償が認められる可能性はあります。が、その「損害」とは、少なくとも「取れるはずの許諾料が取れなかった」という類のものでは無理で、「パクリが出たら元からあった売上が明らかに落ちた」のように、「在ったものが無くなった」という類のものでなければいけません。)

本件の「電話ボックスを水槽に見立てて金魚を泳がせる」という部分については、「トイレを横に倒して置く」のと大差ないような「アイデア」だと思います。
従って、本件の被告が単に「電話ボックスを水槽に見立てて金魚を泳がせる」だけのオブジェを配置したのであれば、本件の原告の勝ち目は非常に薄かったのだと思います。

それに対して、高裁では「公衆電話機の受話器が,受話器を掛けておくハンガー部から外されて水中に浮いた状態で固定され,その受話部から気泡が発生している」という部分に創作性が認められたわけです。
これについて要素を分けると、
(1)公衆電話機の受話器が,受話器を掛けておくハンガー部から外されて水中に浮いた状態で固定され
(2)受話器から気泡が発生している
との2つになるかと思います。

まず(1)について見ると、「公衆電話」という既製品を「選択」し、その一部分である受話器を特定の状態に配置しているわけですが、これが果たして「表現」と呼べるのか、それとも「アイデア」でしかないのかやはり疑問が残ります。
そして(2)に目を向けると、「公衆電話」という既製品の一部分から気泡を発生させるということで、ようやく既製品に対して他の要素が付加されたわけですが、それでも「アイデア」でしかないのか、それとも「表現」と呼べるのか難しい気がします。
少なくとも、「公衆電話の受話器から気泡を発生させる」という部分だけを切り取って「創作」として認め、この要素を含む作品は何でも著作権侵害であるとするのは明らかに無理があるわけで、それについては高裁判決においても、

第1と第3の点のみでは創作性を認めることができないものの,これに第4の点を加えることによって

という形で判示されていることから明らかです。

「既製品アート」と一口にいっても、既製品を単に特定の状態に配置しただけのものから、何らかの形で人の手が加えられているものまで様々かと思います。
著作物とは、大前提として

思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう。

ということになりますが、その「表現したもの」という要件を満たす上では、やはり何らかの形で人の手が加えられている事が必要になるのでしょう。

Ⅴ.これで終わるのか?

本件の判決言い渡しは令和3年1月14日です。
3月21日現在、未だ上告に関する報道や当事者による発表はなく、どうなっているのかが気になるところです。

本件は地裁判決が高裁でひっくり返っているわけで、下級審-上級審という関係ではあるものの、1-1という考え方だってできます。
そして、そのテーマは「既製品アートの著作物性」という、非常に難解なテーマ。
地裁判決と高裁判決とを比べてみても、地裁判決の説得力が高裁判決に確実に劣るとも思えず、人によってどちらに説得力を感じるか割れる部分だと思います。

是非とも最高裁判決が欲しい!

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