特許制度はなんのためにあるのか。
技術者、発明者の利益を守るため?
違います。
技術者、発明者の利益を守るのはあくまでも特許法の法目的を達成するための手段、副産物です。
特許法の法目的は「産業の発展」と規定されているわけですが、何をもって産業を発展させるかというと、社会の役に立つような新規な技術を一般に公開させ、多くの人が使えるようにすることによって産業を発展させるわけです。
そして、ただ単に公開しろと言っても無理があるので、公開の代償として出願から20年間の独占権を認めているにすぎません。
つまり、特許法というのは人々に知恵を振り絞らせ、社会の役に立つ技術を次々と公開させるための制度です。
が、
どうも知恵を振り絞る方向が間違ってやしませんかね、という思いがいつからか強くなってきました。
技術開発に知恵を振り絞るのではなく、ちょっと考えれば誰でも思いつくようなものを如何に特許にして他社からあぶく銭をせしめるか。そんな、特許法の法目的と完全に逆行する形で知恵を振り絞り、特許制度を貶める輩が多すぎやしませんかね。
そんな疑問に基づいて昨年度特許委員会であるテーマに取り組んでいたんですが、そこでまとめた報告書が(のり弁で)公開され、のり弁部分を修正して一般向けにしたものが月刊パテント(9月号)に掲載されました。
「月刊パテント/別冊パテント」目録検索システムにてウェブ上に公開されるのは1ヶ月後(2022年11月頃)くらいかと思います。
月刊パテントでのタイトルは「ソフトウェア関連発明の法目的に沿った運用に対する提言」なのですが、元々の(自分の脳内での)タイトルは「ソフトウェア関連特許ラジー賞」でした。
その名の通り、ソフトウェア関連特許で「最低」だと思うものをあげつらうという趣旨。
この「最低」の意味するところは「法目的に反する」「産業の発展を阻害する」ということなのですが、表彰された側としては表向きには非難されていても、裏を返せば「制度を狡猾に利用して自己の利益の最大化を図った」ということなわけです。
銭ゲバが持て囃され、欲の皮の突っ張った投資家向けにPRすることしか考えていない馬鹿な経営者が跳梁跋扈する昨今の世の中ではむしろ勲章になるとも思えるわけで、我ながら良い企画だと自信を持っていたのですが、やはりそのまんまで公開するのは無理で、「ソフトウェア関連発明の法目的に沿った運用に対する提言」として、個別の権利や訴訟が特定できる情報は隠す形で公開されることとなりました。
月刊パテントにアクセス可能な方は今すぐにでも、一般の方は「月刊パテント/別冊パテント」目録検索システムにて公開された後にご覧いただければと思います。
弁理士会のフォーラムにアクセスできる方は2021年度特許委員会の報告書をご覧いただければのり弁状態の報告書を見ることもできます。
さておき、
このような特許権を否定する言説を発信していると「アンチパテント」「弁理士のくせに」と呼ばれることがあります。まぁ(しょうもないものではあっても)権利を否定しているわけですからそれもやむ無しという部分もありますが、自分としては当然ながらアンチパテントのつもりはないわけですね。
特許制度をあるべき姿に
と思っているだけです。
技術好きとして特許制度は素晴らしい制度だと思っています。
が、
こんなもんが20年間も独占されていいわけねぇだろ、
という特許が多すぎやしませんかね、とは思っています。
今の世の中、ソフトウェアというのはそれだけの分野に留まらず、世の中のありとあらゆるものがソフトウェア無しでは動かない、ソフトウェアはまさに社会の基盤といっても過言ではないでしょう。
そんな重要な分野において、しょうもない特許性に疑問のある特許が量産されていいわけがないと思うわけです。
自分はソフトウェア関連が主要分野なのでとりあえずソフトウェア関連を対象とした論考になってますが、他の分野はどうなんでしょうか。
ソフトウェア分野に関して言えば、制度上では本来「人為的な取り決め」は特許にはならないはず(29条1項柱書違反)ですが、単なる人為的な取り決めに過ぎない概念をソフトウェア的に記述するだけで特許になってしまっていたり、細かく記述された結果ドンピシャになる先行文献がないだけで技術的には新しくもなんともないのに(29条1項各号、同2項違反)特許になってしまっていたりするというのが現状だと認識しています。
パラダイムシフトが起きれば、29条1項柱書や29条1項各号、同2項違反でのソフトウェア関連特許無効の嵐が吹き荒れるのではないか、というかそのパラダイムシフトを巻き起こそうと思って「ソフトウェア特許ラジー賞構想」を立ち上げたわけですが、その効果は如何なるものでしょうか。今後の展開を注視したいところです。
アンチパテント(とは思ってないけど)化の軌跡
ところで、
自分は如何にして今のような考えを持つに至ったかを考えてみると、なかなか面白いなと思ったので書いてみようと思った次第。
自分がこの知財業界の仕事に就いたのは2004年初頭で、2007年頃からはソフトウェアや電気回路関連が主要分野になっていった感じです。
当時はクライアントの要望するままに「とにかく広い権利を」「とにかく登録査定を」という方針で、出願においては審査官が好みそうな細かい細かい技術的事項を盛った明細書を書き、審査においては「後知恵」「容易の容易」「阻害要因」等といった弁理士の先人が発明した特許査定を勝ち取るための手法を駆使し、ソフトウェア関連特許を量産していきました。
その中には、クライアントから提示される技術情報が陳腐なものでしかなく、技術者に対する細かい問答の末に無理くり特許化の種を捻り出したような案件も少なからずあり。
これまでに書いた明細書の件数はざっと1000件は超えているかと思います。
そんな風にして登録された特許が社会にどのような影響を与える可能性があるか等、当時は考えもしませんでした。
弁理士登録を経て独自のクライアント開拓を開始するわけですが、自分のターゲットは技術的に面白い事をやってそうなIT系中小企業。
運良くお近づきになれたクライアントのお仕事もしつつ、ソフトウェア関連特許の量産を続けます。
技術好きが集った中小ベンチャー企業のエンジニア達と話すのは本当に楽しかったのですが、特許出願に関する考えは日常的に特許出願を行っている企業とは一線を画すものがあり、弁理士としてはとても新鮮な気持ちになったものです。
それ以前においても、
「この人はすげぇ。。。」
と思うエンジニアとの出会いは数々ありました。
が、大企業におけるそんな人達の位置づけは往々にして「変人」「厄介な人」なんですね。
自分はむしろそういった方々とこそ楽しく仕事ができる、そういった方々の言葉を翻訳できるというところが売りだったりしたんですが、
大企業で持て囃されるのは、言葉を選ばずに言えば技術的にさほど優秀ではなくても「取るに足らない技術」をなんとか特許にするために知財部に協力する人、です。
対して、中小ベンチャー企業のエンジニアは「変人」「厄介な人」だらけ。
そんな人達が存分にチカラを発揮している環境に非常にワクワクしました。
そんな両側の仕事のギャップの中で、「発明」というものを改めて見つめ直していくことになりました。
それまでも、
ふ~ん、、これで登録査定になるんだ。。。
と感じたことは幾度となくあったものの、その先にある感情は「ラッキー♪」でした。
しかし、次第に「本当に登録でいいのか?」という気持ちが募っていきます。
同時に、それまで量産していた特許の海外における審査結果が出揃ってくると、時としては日本での審査とは異なる判断結果に様々な感情が湧きますが、その感情も次第に変化していきました。
当初、
日本では登録されたのに、んだよぉ~!
という反感だったのが、次第に
日本では通っちゃったけど、毅然と拒絶するもんだなぁ。。。
という感心に変わっていくのは、我ながら驚いたものです。
つまり、
日本の特許審査は緩すぎる
という意識が生まれて来たわけですね。
その後、中小ベンチャーのクライアントに対する特許の攻撃をきっかけに完全に覚醒します。
それまで、判例を検討する際の主な視点は
ソフトウェア関連特許による権利行使成功事例の収集
でしたが、それ以降は
被告が自分のクライアントだったらどう思うか
に変化しました。
他者の権利を侵害することは許されません。
しかし、その権利が正当なものであることが前提です。
では、特許権が正当なものであるという保証はどこにあるのでしょうか?
そもそも、なぜ技術が特許として保護されるのか?
それは冒頭の通り、その技術を公開して誰でも使えるようにすることが社会のためになるからです。
極論を言えば、社会の役に立たない技術を特許法で守る必要はないわけです。
「登録査定となった」ことは特許が正当であるという保証にはなりません。
もしそれが正当であるという保証になるのなら、特許を無効にするための制度(無効審判)が存在するのはおかしいでしょう。
特許を審査するのも人である以上、特許査定が間違いであったという可能性はなくなりません。
そして、特許すべきか否かの判断、その境界は時代とともに変化する、ある意味では曖昧なものです。
特許権者は、他者に権利を行使するのなら「登録査定」に胡座をかくことは許されない。
少なくとも、権利行使を行うのであれば、その権利が、その時代において正当であることを証明する責任や、権利行使が不当なものであった場合の責任は背負うべきではないでしょうか。
権利行使の結果として権利行使自体が間違っていた、差し止めや損害賠償請求が認められなかったとしても、権利行使を受けた側は「あ~良かった」とはなりません。
その対応に費やした時間や費用は完全に「損害」ですし、権利行使を行った側に対する憎しみが残ります。
つまり、「不幸」だけが残ります。
これは特許法が目指すところの「産業の発展」に寄与していると言えるのか。
正当な権利行使の副作用として社会的に許容されるべき事態なのか。
また、権利行使を受けた側が、
「こんな取るに足らない技術で?」
と思うような特許が他社から利益をかすめ取るような事態は、本当に特許制度にとってプラスなのか。
「取るに足らない技術」が次々と特許査定され、そんな特許で攻撃を受けた側が特許制度に不信感、不満感を募らせていく事態は、本当に特許制度にとってプラスなのか。
権利行使を受けたすべての人、は無理でもなるべく多くの人が特許に対して「取るに足らない」と思わないような、特許や特許権者に対して敬意を持てるような制度でなければいけないのではないか。
そんな風に考え方が遷移していきました。
この考えは果たして「アンチパテント」なんでしょうか。
そうではないと信じ、
自分こそが特許法の未来、法目的の達成、そして制度を利用するクライアントの目先ではない真の利益を深く考えていると信じ、
既につくったモノの権利よりも、これからつくるモノのことばかりを考えているエンジニアの横に立ち、
プロパテントに偏った今の世の中でアンチパテントの誹りを甘んじて受けながら知財と向き合う毎日です。